校歌にまつわるお話

【120周年記念誌より】

「校歌」は明治 41 年1月に制定されました。「我等が歌」と題されたその歌詞は、片仮名、平仮名で交互に表記されています。1番の歌詞から、あるいは題名からも「校歌」としての意図は、当初なかったのかも知れません。
 1番は「センウンイマヤオサマリテ」と日露戦争の終結を折り込んでいます。他は現在の歌詞に類似してますが、当然「歴史的仮名遣い」によっています。
 昭和になって「安逸の夢」の次に「を」が入り、「時ならじ」が「時ならず」と改められています。
 昭和 35 年4月 14 日に常に論議されていた「シベリヤ颪」か「シベリヤ嵐」を「嵐」に決定しているのは、「我等が歌」に従った妥当な指導であったといえます。
 かつて、時代や時局を反映するのが「校歌」の特質でもあったので大正期、昭和期には、「1番」がそれぞれ次のように変えられています。

大正期
1.トヨサカノボルアサヒコノ 
  ヒカリハイヨヨカガヤキテ
  イマタイショウノオホミヨニ  
  コクウントミニボツコウス

昭和期(戦前)
1. 豊栄昇る朝日子の   
  光はいよいよ輝きて
  昭和の御代の国民は
  東亜盟主の任重し

 その後、歌詞の改訂が国語科の教諭によって行われ「1番」の「昭和の御代の国民は東亜盟主の任重し」は「真理を求めたゆみなき我らが使命果たしなむ」となり、「光はいよいよ」は「光はいよよ」と 変えられていきました。